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毀れゆくものの形

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   第 七 章

 鶉町は山並に挟まれているため、盆地にみられる気候の特色を備えている。寒冷な土地柄で、ただでさえ冬の寒さは苛烈をきわめるというのに、短い夏の間だけは気の遠くなるような暑さに襲われた。生まれてこのかた何十年もこの町に住み暮らした人でさえ、その暑さにはとうとう順応できず、噴き出る汗と体の変調に閉口して、誰彼かまわず不平をぶつけるのだった。それでも、昼下がりも過ぎ、暑さが少しばかり収まると、ようやく短い夏の暖かさを堪能しようというのか、町全体に静かなけだるさが広がっていく。
 松林や隈笹の深い緑の葉叢が柔らかな陽差しを浴びて小波のように光っている中を、赤く塗られたディーゼルカーが通り過ぎていった。国鉄鶉線は単線軌道であり、函館本線の停車駅をもつ隣市との間わずか七・四キロを一時間に一回折り返し運行している。けれども近頃では、その便数も二時間に一本程度に減らされていた。午後も遅く、時間がのんびりと流れている頃に、乗降する客の数が多いわけもなく、走りつづけるディーゼルカーの窓から覗く人影もまばらだった。この乗客専用車の往復する合間には、貨車に石炭を満載した蒸気機関車が濛々と烟を吐きながら、ひどくゆっくり動いている。町の全てが午睡に入っているかのようだった。
 いかにも平穏無事に日々が移ろっているように見えたが、そうした長閑な午後にもかかわらず、人々は安逸な眠りに就くどころか、ひどい悪夢にうなされていた。政府のエネルギー政策の転換が引き金になって石炭産業は危殆に瀕し、炭鉱地帯は深刻な不況に直面していたのである。またそれに輪をかけるように、鶉町ではこのところ落盤事故やガス爆発が相次ぎ、鉱山会社はいくつかの坑口を閉鎖し、経営規模の縮小に努めていた。人々は住み馴れた町を後にし、活路を大都市に求めざるを得なくなり、炭鉱離職者問題が深刻化していた。急激な人口の減少を目の当たりにして、鶉町では各層の知名人を招集して再建懇談会を組織したが、もはや炭鉱町の崩壊をとどめることはかなわなかった。
 幽霊を見た夜から数日後の日曜日、早彦は人けのない静まり返った病院の一階に降りて来ていた。父親の矢継院長は再建懇談会から出席を請われ、午後から留守にしていた。昼下がりもとうに過ぎて、診察室や薬局の窓の薄地のカーテンを透かして到達する淡い光と、光の当たったカーテンの布地から発する日向臭い匂いに充ちていた廊下に、しだいに薄暗さが増してきていた。早彦は診察室の隣にある部屋のドアを前にして佇んでいた。そこは、入室を厳禁されている矢継院長の研究室だった。
 病院の一番奥に応接室があったが、矢継院長は仕事を終えるとそこで白衣を脱ぎ、院長宅に繋がるもう一つのドアから自宅に戻ることにしていた。早彦は応接室のコート掛けに吊り下げられた白衣のポケットから鍵束を持ち出してきたのだが、それには同じような鍵が数十本、数珠繋ぎにされていた。けれども、前に食事の始まりを知らせにきた折、開かれたドアの錠に刻まれている記号を目の端で盗み見ていたので、符合する鍵を選び出すことは造作もなかった。廊下の側は薄暗くなっていたが、ドアを開けるとカーテンの蔭から夕陽が差し込み、研究室の中は夕焼けの色に染まっていた。
 窓際には父親の広い机が置かれ、入口の傍に簡単な応接セットがあった。ぐるりの壁には医学書や変色した書類などを収蔵した書架と、深夜に覗き見たときのあの標本棚が並んでいた。部屋の一角に孵卵器があった。その前面の扉が透明な覗き窓になっており、中に数箇のシャーレが収まっていた。早彦はそのシャーレの中に、黴のような緑色のものが浮かんでいるのを見た。その隣にある遠心分離器の蓋を開けると、大小の試験管が数本、テープで色分けされ、その中にそれぞれ濃淡の異なる緑色の沈澱物を溜めた液体が入っていた。早彦は何の病原菌だろうと疑問を抱いたが、気味悪くなって元通りに蓋を閉じた。
 電子顕微鏡が固定されている机の抽斗を開けると、一冊の分厚いノートと、何葉かのレントゲンフィルムの入った紙袋が目についた。ノートを机の上に取りのけ紙袋からフィルムを取り出してみると、褪色の具合から、それらはかなり古い時期のものであるように思われた。そのうちの一枚を机の上のスクリーンに貼りつけ、ライトのスイッチを拈ってみた。光の中に頭蓋骨が白い光芒となって現われたが、それを見て早彦は奇異な印象を受けた。側面から撮られた頭蓋骨の形が、これまで知っているものと随分違っていたのだ。早彦は数日前の深夜の光景をいままた明瞭に想い起こし、愕然たる思いに囚われていた。
 灰色に光るスクリーンをそのままにして、早彦は標本陳列棚の方へ歩み寄った。醜怪な姿のまま瓶詰にされた嬰児たちの、瞼の裏側で白濁している眸が一斉に瞠いて、こちらを見つめているような気がした。いつのまにか夕陽はすっかり翳り、研究室の暗がりには、頭蓋骨を映し出しているフィルムを透してスクリーンの蛍光燈の明かりが薄ぼんやりと洩れているだけだった。霧のようなその乳白の光が、反対側の棚に並んだ頭蓋骨の標本を頼りなげに照らしていた。早彦はその中から一目で変形していると分かるものを選び取り、細い指を開いて両掌で抱えた。
 夏の午後のぬくもりが掌を伝った。まだ生温かい頭蓋骨の手触りは、燃え尽きた石炭の残骸のようにざらざらとして、乾燥しきっていた。けれども、じきに、汗ばみ始めた早彦の掌が表面に湿り気を与え、手の跡が影のように残された。早彦は、光の源を蔽い、その光を塞ぐように貼りつけられたフィルムの白い影を振り返った。わずかに頭部の形をして洩れ出た仄白い光の暈の中で、早彦の眸が青々と輝き、瑞々しさを増していった。白目の部分の面積が大きいため、瞠かれた眸全体が冷たい光を帯び、酷薄そうに見えた。早彦の指が頭蓋骨の変形した箇所を擦っていた。
「つの――」
 そのとき、閉めておいたはずの研究室のドアが小さな金属音を発した。早彦はその音の方に、思わず鋭い目を向けた。かすかな軋り音をさせて開いたドアの向こうの闇に、蒼白い、あやふやな顔が揺らめくように浮かんでいた。言い知れぬ恐怖が早彦を打ちのめした。背筋を、この世のものとは思われぬ辛辣な冷気が疾ったのだ。それはあの夜の親和的な性質を持つものとは異なっていた。醜い皺が無数に刻まれ、脂気のすっかり失せた涸いた顔、そして白髪混じりの頭部が仄明かりに照らし出されると、悪相そのものに出遇ったように感じた。いつのまにか、そこに有木老人が立っていた。
 早彦が、抱えていた頭蓋骨を取り落とした。頭蓋骨は得体の知れない妖しい力に衝き動かされたように掌の中を滑り、早彦の体がふいに萎えてでもいくような頼りなげな危うさに囚われ、あたりはいっそうの静寂に浸されていた。時間がその瞬間だけ滞っているかのようだった。しかし、あの夢の中で頭蓋骨が闇を引き裂くような動きを見せたのとは反対に、頭蓋骨の標本はその突起を重力の方向に向けながらゆっくり廻転し、リノリウムの床に吸い取られるように、あまりに緩慢な時間の流れのうちに落下していた。それでも早彦は、夢の中の出来事と同じに、頭蓋骨がこの世に存在していたことが嘘であったかのように、地下の不吉な世界へ姿を消してしまうもののように思っていた。だが、早彦の期待に反して、頭蓋骨は暗がりの中で乾いた音を響かせて粉々に砕けたのだった。
「そこで、何をしている」
 低いくぐもった声音で、有木老人がゆっくと呟くように訊ねた。その声は身を竦ませるに足る、不思議に力の罩もったものだった。早彦は貫くような老人の声のためばかりではなく、より深い闇の彼方から訪れる本源的な力にふたたび打ちのめされてでもいるのか、激しい眩暈に襲われていた。上体が揺すぶられるように感じたとき、その細い、骨ばった肘が標本棚に並んだガラスの容器の一つを掠めた。鳥の鳴き声のような鋭い音をあげて、胎児の入った瓶に亀裂が走り、洩れ出たフォルムアルデヒドの液が早彦の腕を濡らした。早彦は死の液から自分の腕を庇うというより、瓶の中から胎児の死体がこぼれ出ないように、倒れかけたガラスの容器を掌で支えようとした。そしてそのとき、容器の表面にできた疵に触れた指がわずかに切れたことに気づかなかった。
「この部屋に入ってきてはいけない」
 その声に叱責の調子は罩められていなかった。あくまで淡々として、また妙に余韻をひきずる声だった。しかし、レントゲンフィルムから洩れるか弱い光を受け、蒼白な光の影響で冷たく浮かび上がった老人の顔には、次第に嶮しさが増幅され、眼窩の奥に有無を言わせぬ厳しさが湛えられていた。その鷹のように鋭い目が早彦の白い指から滴る血に向けられたとき、老人の表情がみるみるこわばり始めた。早彦の赤い血液が床に散乱した頭蓋骨の骨片に、間歇的に注がれていた。そして次の瞬間には、その滴が骨片に沁み込んでいったのである。

 早彦の去った研究室にひとり立ち尽くす有木老人は、肩を落としたまま部屋の中をどこともなく、しばらく打ち眺めていた。その姿は、暗闇に溶け入る亡霊のようにはかなげだった。傍の机の上に、矢継院長の古びた研究ノートが残されていた。老人は老いた体を屈め、血の沁み込んだ骨片を拾い上げると、黝んだ唇をかすかに綻ばせ、「人間は脆いものだ。魂はもっと脆いが、肉体はさらに脆い」と、力のない呪詛を洩らした。
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